英語の音声が聞こえてくると、「うわぁ、英語だぁ!」という特別な感じがしませんか?
この独特な感覚の不思議について、私なりに考えてみました。
単に英語が聞こえてきただけでも独特な感情が起こりがちですが、さらに、実社会での場面が加わると、もっと深刻になってきます。
- 街で外国人と思われる人がいると「話しかけられたらどうしよう」とヒヤヒヤしてしまう。
- 家族や友人などと一緒にいる時に英語が聞こえてきて「今、何て言ったの?」と聞かれそうで、「聞かないで、聞かないで」と心の中で叫んでしまう。
- 会社などで、英語能力のことになると「取り繕ったような発言(嘘だったりする)」をしてしまい、手に汗を握ってしまう。
これはもう、ほとんど「恐怖症」ですよね。
さらにタチが悪いのは、「こういう気持ちを打ち明けることすら恥」だと思ってしまい、「ずっと心にしまっている」という、おかしなことが起こってしまうことです。
私も例外ではありませんでした。
ただ、私の場合、ずっと発音をやってきたせいか、単に「英語の音声が聞こえてきた」ぐらいなら、特に緊張することはなくなりました。「意味はわからなくても」です。
音がわかるだけでも違うものです。
もっとも、私も英語能力については発展途上なので、試されるような感じで聞かれたりするのは嫌ですよ。
さて、この恐怖心とも言える気持ち、いったい、どこから来ているんでしょう?
私の「憶測」では、日本で育ってきた過程において、このような恐怖感を「私たち日本人同士で植え付け合って」きてしまったのだと思います。
きっと、背景には制度やメディアの影響があるのでしょうが、それを強化してしまったのは私たち自身。
例えば、以下のような場面で、ずっと煽られ続けてきたんです。
- 街で、友人などから、「あ、外人さんだ、英語得意だったよね、話しかけてみたら?」と言われた。
- 会社で、上司から、「今度、アメリカからのお客さんが来るから、対応よろしく。君なら楽勝だよね?」と言われた。
おそらく、言っている方は、相手が「ギクッ」とすることをわかって言っているんです。特に悪気ではなくても、結果的に「いじめ」のような作用を及ぼしてしまっています。さらに、それをやられた人は、その後、他の人にも同じようなことをやってしまう。
このような連鎖で、私たち日本人が、自分たちの間で、「英語、恐い」、「外国人、恐い」、「英語、できないと馬鹿にされる」という恐怖心を「植え付け合い続けて」きてしまったのではないでしょうか。そして、「英会話ができないといけない」という前提の社会的な構造(教育や産業等)ができてしまった。
そもそも、日本人の間でこのようなことが起きたきっかけは、戦後の日本社会における価値観・風潮によるものでしょう。しかし、もう、ここまで来たら、一旦リセットして、新たに考え直した方が良い時期に来ていると思います。
冷静に考えましょう。
日本人が日本に住んでいる以上、「英語が聞こえてきて恐い」とか「外国人に英語で話かけれるのが恐い」と思ってしまうのは、どう考えてもおかしなことです。
もう、身についてしまっているので、心から克服できるようになるのには時間がかかるかも知れませんが、せめて、「今の状況、ちょっと変ではないか?」と思ってみませんか?
もし、「やっぱり変だよね」と思ったら、以下のような対応が可能だと思います。
特に英語を必要としていないはずの他人に対して、
- 英語コンプレックスを煽るのを控える。
- 英会話ができないといけない風潮を煽るのを控える。
恐怖心が身についてしまった自分自身に対して、
- 一旦、「日本人なんだから英語なんてできなくたっていい」と開き直る。
- その上で、「カクカクジカジカの考え方から、自分は英語を勉強するんだ」と目的を再認識・再設定する。(「強制されて仕方なくやる」というのも、残念ながらあり得る)
- 英語の基礎をしっかり固めてしまう(何もわからないと不安が高まる、「できること」と「できないこと」が明確になれば、和らぐはず)。
- 英語の能力をうんと上げてしまう(時間がかかるが、恐いものなしになる)。
- 英語の発音を身体で覚えてしまう(時間がかかるが、音に関しては恐くなくなる)。
少なくとも私は、発音を身につけ、社会的評価を気にしなくなってから、気が楽になりました。その変化を感じているから、この記事を書こうと思いました。
現実問題として、英語の学習ニーズはある訳ですから、それを踏まえて、まとめてみます。
必要があって英語を勉強しなければならないのであれば、その必要を満たすために、いかに上手くその必要を乗り越えるかという対策的な考えで勉強をすれば良いと思います。好きで英語を勉強するのであれば、好きなように勉強すれば良いと思います。
そして、同じような立場の人で、情報共有したり、時には自慢し合うのは良いことだと思います。
しかし、望んでいない人に対して、わざわざ英語に関する何らかの恐怖心のようなものを植え付けるようなことを言うのは良くないと思います。
私たち自身が、「英語に対して何らかの恐怖を感じるようになった」のは、今まで「そのようにされてきたから」ではないでしょうか。