うるさい素人

質を重んじ物事の本質を見抜く! 脱サラして英語発音講師を目指すオヤジのブログ

英語発音と英会話の関係に関する私の考え方

以前書いた「英語の「発音」と「英会話」は別物か?」という記事では、文章での説明が難しく、私の気持ちをうまく表現しきれなかったと思っています。

 

そこで、今回、図を描いてみたので紹介します。

 

図1 発音を土台とした英語の習得過程モデル

 

これが、私のイメージです。

 

「発音」が「土台」(底辺)で、「英会話」は英語能力の総合力を発揮する集大成ということで「頂点」となります。

つまり、発音のトレーニングと英会話のトレーニングは全く別物です。

会話中は、話すことに全力を尽くす必要があり、発音を良くする余裕はないと思います。母語である日本語の影響が出てしまうので、「本来の発音の技量の何割かが出せれば良い方」ぐらいだと思います。

 

さて、理想的な姿として「土台としての発音」を身につけられたら、続いて、「単語の習得」、「文法の習得」、「例文の音読」など、すべて「その発音で」声に出して、「音」で体に覚えさせていきます。

 

「ことば」は、元来、音声によるものですよね。

 

「文字」は、「伝達や記録」のための手段です。補助的なものであって、「ことば」の本質ではない、というのが私の考え方です。

 

一方、一般的には、以下のように捉えられているような気がしています。

 

図2 一般的に考えられがちな英語能力のイメージ

 

解説の前に補足しておきますが、図1と図2は、対比にはなっていません。発想が違うので、違う切り口で、次元が異なることを描いています。「発音」と「英会話」の位置関係の部分がポイントです。

 

人の頭の中に、謎の「英語脳」というものがあって、その英語脳に基づく英語の能力である「4技能」というものがある。その4技能のうち、「話す」が、とりわけ重要。

 

「話す」目的は、ほぼ「英会話」で、そのためには、発音が上手な方が良い。

 

自分の内面で「話す」勉強をしているうちはカタカナ発音でもいいけれど、いざ、人前で話すことになったら、英語らしく話したい。

 

そこで、「発音矯正回路」で整える。自分の内面の発音はカタカナ発音なので、それを「英語らしく変換」しながら話す。

 

こういうイメージです。

 

現実には、前述のように、「会話中に矯正しながら話す」というのは、ほぼ困難。そもそも、会話を優先したい場合、「話す」能力の中身は「決まり文句」が大部分、ということになってしまうと考えられます。「決まり文句」を「矯正回路」により「英語らしく話す」ようにトレーニングしていく、という感じでしょうか。

 

ちなみに、リスニングに対しても、「聞き取り増強回路」みたいなものがあって、「こういう時は、こういうふうに聞こえる」などの「変換方法」を覚えていき、「1.5倍速」とか「2倍速」などの負荷をかけて訓練をする。このような考え方が一般的にあるような気がします。

 

ところが、私は、こういう感覚では捉えていないんですよね。

自分の中にある基本の発音が、しっかしした英語の発音であれば、特に変換したりする必要はないはず、という考え方です(母語の影響があり、現実には、うまくいかないことも多いですが)。

 

とはいえ、私は、「すべての人」に「図1」のような「基礎からの積み上げ」をすることは提唱していません。

正直、このやり方では、英語ができるようになるまでに10年かけても全然足らないんです。少なくとも私自身では実証済み。「発音」と「単語」、「簡単な例文」だけで、数年はかかってしまう。「すべての人」が取り組むのは非現実的です。そんなに先生もいない。

 

しかし私は、これまでのいきさつで、この底辺のところに特化したノウハウを持っているんです。さんざん回り道をして、「失敗」と「やり直し」を重ねてきているので。

なので、多くの方が「できない、できない」と困っていることに対して、それなりの解決案は出せると思っているんです。

世の中には、何らかの理由で「時間がかかっても、正しい発音を身につけたい」という方が必ずいらっしゃると思っています。そのような方に対のお手伝いができれば、と思っているのです。

 

ところで、なぜ、私が、このことについてこだわっているかというと、私が「英語の発音をやっています」と言った時のイメージにあります。おそらく、「Hi, how are you doing?」みたいな「日常会話をネイティブっぽく話すトレーニングをやる人」、というイメージを持たれてしまう気がしてならなかったからです。それとは全然違うんです。

 

私が「発音」と言っているのは、日本語でいう「あいうえお」、音楽でいう「ドレミ」を正しく出せるようにしましょう、という、ただ、そういうことなのです。