うるさい素人

質を重んじ物事の本質を見抜く! 脱サラして英語発音講師を目指すオヤジのブログ

「テクノロジーと人間の能力」についてグルグルと考える

今日は随想的に書きます。話の流れが、論理的に、あちこちで壊れている思います。悪しからず。

 

今朝、ベランダで、植物に水遣りしていた時に、ふと思った。

「今の世の中、人間の能力より技術が進歩しすぎたかも」って。

 

自動車、船、飛行機など、悲惨な事故があったりするけど、そもそも、人間の能力をはるかに超える技術を手に入れてしまっているのだから、何か、無理が出ていると思う。

 

人間、走ることや泳ぐことはできるので、自動車や船までなら、ギリギリ人間の能力の延長線上だと言えないことはないけど、さすがに空は飛べない。飛行機って、普通に飛んでいるけど、人間の能力からして、少し飛躍しすぎているのかも知れない。

 

もちろん、僕も乗り物にはお世話になっているし、当然、必要なものだと思う。乗り物だけではなく、原子力とか遺伝子関係とか、賛否が分かれる技術だって、冷静に考えて取り入れなければならないものもあるだろうな、って気がする。技術を否定している訳ではない。

 

日常生活もハイテクになって、AIとかロボットとかが、入り込んでくるようになる。そういう研究や実用化が進むこと自体は必然のことだし、うまく使えば人間が幸せになれると思う。

 

問題は、そもそも「人間の能力をはるかに超えたことをやっているんだ」ということを忘れてしまいがちなこと。

言い換えると、「人間は空を克服した」みたいに、おごってしまっていることは、怖いことだと思う。

どこかで、「おごってはいけない境界」みたいなものがあるような気がする。明確な線は引けないけど。

 

ここで、見方を変えると、このような、人間の能力を超えるような技術を考えたのは、これまた人間だった、ってこと・・・これは注目すべき点だと思う。

人間は、乗り物にしても、ハイテクな物にしても、そういうものを発明して生活に取り入れる知恵を持っている。

 

だったら、結局、人間の方が偉いのか?

 

ややこしいが、人間の能力について、もうちょっと考えてみる。

 

人間は、手足が器用に動くし、言葉をしゃべることができる。

鳥のように飛ぶことはできないけど、鳥にはできない言葉を話すことができる。

 

しかも、ただ単に「手足を器用に動かせる」、「言葉をしゃべれる」というだけではなくて、意志をもって自発的に練習したりする。

踊りとか、楽器とか、スポーツとか、自分の意志で、より緻密に動かそうとする。
勉強して、人に伝え、普段使わない言語まで学んで話そうとする。

 

その能力は大事にしないといけない。鳥は飛べるけどしゃべれない。人間は飛べないけどしゃべれる。人間が飛行機を作ることも必要なことかも知れないけど、せっかくしゃべれるのに、機械にしゃべらせるのはどうなのかな?って思う。

 

人間は、「文明の利器を発明し生活に取り入れる能力」と「自分自身で、高度な技を体現する能力」の両方を持ち合わせているのだから、そのバランスを取るのが、さらに高度な知性として必要だと思う。

 

最近、ハイテクなモノが主役になりすぎてしまっていると思う。

僕は、少しバタ臭くても良いから、人間味がある方がいいな、と思う。
「ナチュラルなサウンドになった打ち込みの音楽」よりも「生演奏」が、「流暢になった人工音声」より、「肉声のアナウンス」の方が好き。

 

「せっかく授かった、生身の身体で体現できる能力」を使わなくなってしまうのは、もったいなさすぎる。それを大事にしないのが「おごり」の一種なのかも知れない。

 

だからといって、すべてアナログであるべきだとは思っていない。

英語の勉強は、生身の人間がするものだけど、その支えとしてテクノロジーを使うのはとても良いこと。すごく便利な時代になったと思う。便利なものは使いこなせば良いと思う。

 

この記事、「テクノロジー」とか「技術」とかいう言葉から入ったけど、結局のところ、「人間と道具の関係」というシンプルな話なのかも知れない。