うるさい素人

質を重んじ物事の本質を見抜く! 脱サラして英語発音講師を目指すオヤジのブログ

自分の発音を客観視できるようになると練習課題が増える

私は、毎日の「英語の勉強」が、実質「発音の練習」になってしまっているのですが、最近、さらに発音練習に時間がかかっています。

 

やっていることは「かなり細かなこと」で、単語の音節を意識して「細かな時間配分を調整」したり、「つい短く詰まりすぎてしまうところを矯正して長くしっかり声を出すように」したりしています。

 

ちなみに、このような細かなことをやっているのは、人に感心してもらうためではなく、日本語と英語の音の違い ― 本質的な違いをわかろうとしているからです。

 

発音にこだわる人の中でも、人によって取り組む順番は異なると思います。最近では、息や声の出し方が重要だという意見をよく耳にします。私は、古典的に舌や口の形を優先しているのですが、時間的な動きも含めた細かなことをやっているうち、息の出し方や、声質なども変わってくるものです。

 

さて、冒頭で述べた、「最近になって、さらに時間がかかるようになった」のは何故かというと、「自分が出している発音を、よりシビアに聞き分けられるようになってきている」からです。

 

すなわち、目標と現実の差が、すごく大きく感じるから、近づけようと練習するのに時間がかかるようになった、ということです。

 

英語の能力は階段式に上達していくと言われますが、発音についても、その傾向があると思います。

 

発音の能力において、「自分が発音する能力」と、「自分で自分の発音がわかる能力」の2つが重要だと思っています。後者は、リアルタイムで感じ取れる部分も多少はあるのですが、録音しないとわからないことも多いです。さらに、録音しても、「脳が客観視してくれない」ので、「違っていても気づかない」という厄介な問題もあります。

 

話を戻します。「段階式に上達する」ことについて、私の最近の印象について書いてみます。本当に最近感じたことで、仮定し始めたばかりのことなので、見当はずれかも知れません。

 

私の最近の印象では、前述のような「自分が発音する能力」が「段階式に上達する」だけでなく、少し遅れて「自分で自分の発音がわかる能力」も「段階式に上達する」ような気がします。「少し遅れる」といっても、2つの階段は相似形ではなく、違う形。後者の方が粗い階段で、次の段が来るまでが長いような気がします。過去を振り返ると、「おっ、発音が上達している」と喜んだことは何度かありましたが、「自分の発音を聞き分ける能力が上がった」と思ったことは、そう何度もなかった印象です。

 

そして、この2つの上達がそれぞれの階段式になっていることにより、「自分で感じられる、お手本の発音と自分の発音の差」が狭まったり広くなったりするようなのです。

 

狭い時は、「お手音の発音との違いがわからない」ということで「もう直すところがない」と勘違いしてうぬぼれてしまったりします。広い時は、「あーダメだ、全然違う」ということで、練習にやたらと時間がかかってしまうのです。今がこの状態。

 

そうして練習を続け、お手本との差がなくなったと喜んでいると、また、ある時、ドンと「大きな違い」に気づき、また練習課題が増える。その繰り返しでやってきているように思うのです。