うるさい素人

質を重んじ物事の本質を見抜く! 脱サラして英語発音講師を目指すオヤジのブログ

誰が何と言おうと英語発音の基礎は必要

私は、「英語の発音は、英語能力の土台となる重要なもの」という立場です。そのせいか、「発音の習得は不要だ」とも受け取れる極論を目に(耳に)するたび、ただならぬ引っかかりを感じます。

 

このような主張の理由は、たいてい、「英語はコミュニケーションの手段だから、通じればよく、ネイティブのような発音を目指す必要はない」というもの。一見、その通りに思えますが、私からすると「なんだか変な理屈」に聞こえます。

 

この件、実はかなり厄介な話。ネット上で詳しい話をするのはご勘弁いただくとして、少なくとも、この種の議論のたび「ネイティブ発音がどうの」という話が出てくることに対しては、誠に不可解な印象を受けます。

 

この種の議論、本質的には「発音を基本からしっかりやりましょう」という考え方に否定的な含みがあるものと受け止めています。となると、「発音の基本の習得は不要、なぜならばネイティブ発音を目指す必要はないからだ」といった摩訶不思議な理屈に聞こえてしまうんです。

 

そもそも、私のような発音を重視する者としては、「ネイティブ発音でなければならない」なんて思っていないんですけどね。

 

「ネイティブっぽいかどうか」、「カッコ良いかどうか」なんて関係ないんですよ。確実に通じるような正しい発音をするため、長年努力した結果、「ネイティブっぽく聞こえるかも知れない」し、「カッコ良く聞こえるかも知れない」、というだけ。

 

もっと言うと、発音を覚える理由は、自分が発話するためだけではないんです。発音できなければ、聞くことも難しいし、自然な感じで読むことも難しくなる(言葉としてではなく、暗号解読のようになってしまう)と思います。

 

言語や発音に関する研究は、まだまだ発展途上。いろいろな議論や新しい説が出てきているようですが、そんな情報が出てくる以前から、過去の人は語学を習得してきているはずです。

 

今の世の中、情報が氾濫しておかしくなってしまっていると思います。

 

私が子供の頃、初めて英語の発音を習った時は、ただ先生から習うだけで、その他の情報なんてなかったから、ごく素朴なものでした。今から45年以上前、11歳の時です。
先生から発音を教えられ、同じ口の形をして同じ音を出そうと一生懸命真似をする。注意されたら直す。ただそれだけでした。

 

何も疑問に思いませんでした。

 

「英語を話すのに、こんな必要があるのか」とか「コミュニケーションの手段なんだから、ネイティブのような発音をする必要があるのか」とか「こんな不自然な口の形をする必要はあるのか」なんていう議論はあり得なかった訳です(今の子供なら言うかも知れませんが)。

 

そもそも、「これが何の役に立つのか」なんて考えてもいなかった。だいたい、「英会話」なんていう概念すら、なかった気がします。

 

生徒はみんな、ただ、大きな口を開けて、大きな声で、先生の真似をしていました。

 

ということで、私は、小学生の頃から、ごく一部の音素を除き、一通りの発音はそれなりにやっていました。今思うとかなり怪しいところはありますが。

しかし、それができたからと言って、誇らしげに思ったことも、人に見せて自慢することもありませんでした。

 

英語に限らず、基本って、そういうものだと思います。

 

先人たちが、さんざん努力して、試行錯誤を重ねた上、「これを習得するには、これが必要だ」という「核心となるもの」をまとめていった。集約されたエキスのようなものができた。それを基本と呼ぶのではないでしょうか。

 

誰もが最初は基本を学ぶものです。しかし、ある段階を過ぎると、型にはまった教科書通りのやり方に異論を呈する者が出てくる。その時代の知見に基づいた、新しい考え方が出てくる。それはそれで良いと思います。でも、やる前から、「やらなくても良い」言い訳を言っていてはダメだと思います。

 

先人たちの努力の積み重ねによる大切なもの、その偉大なる財産を、壊したり手放したりしてはなりません。